永島慎二の〈リアル〉・メモ

  • 私小説」としてのマンガの読まれ方。どうしてそうなっていったのか?
  • 当時、新たに勃興していた青年層のマンガ読者たちが求めたもの。そこに現れた「内面性」とは?
  • 「マンガの太宰治」という評価の意味。その功罪、光と影の両面を考える。*1

 永島慎二のこと、山上たつひこのこと、これまで講義の流れの中で紹介した『マンガ夜話』の、積み残しの部分を一気に消化。
60年代後半から70年代半ばにかけての時期の、マンガをとりまく情報環境の変貌。雑誌の増加と、それに伴う読者層の拡大。量的にも、そして何よりも世代的、階層的にも。小さい頃からマンガを読んで育った世代がハイティーンから20代に達し始めて、中には大学生から社会人になってもマンガを読む者が一定量出現してくる。それに見合って、青年誌も創刊されてくる。(『ビッグコミック』など) 貸本から発した「劇画」のスタイルが、結果的にそれら新しい読者層の拡大に受け入れられ、表舞台の商業誌に進出して市民権を得始める。
 「おとなマンガ」と呼ばれる領域の誕生。それまでのマンガ=「こどもマンガ」であることが改めて意識されるようになる。「手塚的なるもの」の後退。マンガをめぐる環境の転回。
 「カッコよかった」永島の技法。「おしゃれ」で、「スタイリッシュ」、だったこと。
新宿の雑踏の表現、ジャズ喫茶の雰囲気……それは同時代のジャーナリスティックな記述であったし、読者にとっては〈いま・ここ〉を見事に現前化してくれるという意味での〈リアル〉な表現、だった。
 しかし一方で、それは桜井昌男のような視線からは、〈リアル〉が足りない、として見られもしていた。ならば、どちらの〈リアル〉が「正しい」のか?  だが、そのような問い方そのものが、おそらくは無効である。どちらも共に〈リアル〉なのだ、表現として、あるいは表象文化を論じる地平からは。
 劇画が当時、〈リアル〉をめざしていたのは間違いない。それは、「手塚的なるもの」で完結したかに見え始めていたマンガのあり方に、その外部からオルターナティヴな、もうひとつの選択肢としての〈リアル〉を持ち込んでくることになった。技法としての劇画が可能にした〈リアル〉。そして、それら劇画で育ったリテラシー(読み書き能力)を実装した世代が読者として隆起してくるにつれて、逆に表現の現場としてのマンガの水準に、それら新たな読者のリテラシーの方から新たな影響を与えてくるのが見えるようになる。永島的な〈リアル〉、とは、そのような読者のリテラシーが、当時のマンガというメディアの「場」を介して、ある表現を獲得したかたち、であるとも言える。
 一方で、それら永島的な〈リアル〉、とは、ある意味ではるか後の、80年代を規定した「ポストモダン」の気分のさきがけだったかも知れない。見慣れた風景を「おしゃれ」に、「スタイリッシュ」にコンバート(変換、転換)してくれる表現。ゆるやかな意味でのブンガクの機能をマンガが持つようになったことの意味のひとつは、きっとそんなものでもあった。「私小説」的なマンガ、という意味は、内面=心理=「自分」を吐露する手段としてのマンガ、といったところだけでもなく、そのように読み手の抱えた現実に対して新たな〈リアル〉を付与してくれる装置として、コンバーターとして機能するようになったマンガ表現、ということでもある。
〈リアル〉とは、仕掛けを介して立ち上がるものである。それ自体として存在するもの、ではない。「文化」を持ってしまった動物としてのニンゲン、にとっては。「意味」を介してしか現実を認識することのできない部分を持ってしまった生き物。にも関わらず、同時に生き物として当たり前に自然環境に、生態系に規定される生身を持ってしまってもいる、あらかじめ疎外された存在としてのニンゲン。
 たとえば、広告コピー、もまたポストモダン期においては、そのような〈リアル〉を立ち上げる媒体として読まれていた。そのような〈リアル〉をうっかりと読んでしまうような読者のリテラシーが、ものすごい幅を持って大衆化していった時代。同時代の孤独やさびしさ、というものは、それまでと違い、高度経済成長の「豊かさ」を下支えにした高度大衆消費社会の情報環境において、ケタはずれの規模と深度とでそれこそパンデミックのように感染していった。文学が「ブンガク」、になっていった過程というのも、そのような状況のある反映だった。
 大正期の詩のように、広告コピーも読まれていった、という、当時一部で語られていたようなことは、そう思えば、あながち陳腐で凡庸な語り方というだけでもなかったかも知れない。「詩」にあらかじめの価値を認めた態度をカッコにくくっておける限りにおいて。
 ことば、を必要としてきた近代。それに気づくこと。気づいて、その次に、ならば自分は、と問い返してゆくこと。文科系の「教養」というものの輪郭は、そのような気づき方をしてゆくところからしか、見えてこない。

*1:1年生には少しややこしい話題かも知れないけれども、マンガに限らず、文化として〈いま・ここ〉のコンテンツを考えてゆく上でかなり大切なところだと思うので敢えて