マンガ「評論」「批評」の発生地点(1)・メモ

  • 永島の〈リアル〉、と、つげの〈リアル〉の対比
  • あるいは、『COM』と『ガロ』の違い。それらの異なる〈リアル〉を規定していたもの
  • 永島=『COM』=「手塚学校の優等生」(桜井昌夫)=「青春」の通過点、的な評価に
  • つげ=『ガロ』=「評論」「批評」を引き出す原点に=その後も「名声」は生き続ける

もちろん、同じ読み手が異なる〈リアル〉に接してゆくことは、当時、平然とあり得るようになっていた。それは、『がきデカ』と萩尾望都を共に難なく消化できる胃袋を持った読者が登場していたこととも、同時代的にシンクロしている。
 永島は〈リアル〉じゃない、と断じた桜井の視点は、ある意味で正しい。きれいごと、といったもの言いに薄めていいのかどうかは個人的には留保するが、少なくともポストモダン期の中沢新一のような、あるいは当時猖獗をきわめた「難解」文体の衒学趣味のあれこれのような、自分の日々の生活実感からしてどうしても尻がむずがゆくなるような、騙されねえぞ、的な気分を抱えてしまうような主体 (『ガロ』に集っていた読み手の気分のある部分には、そんなところがあった。後の、80年代的価値相対主義に連なってゆく萌芽的な意識) にとっては、生理的に距離を置くようなもの、ではあったのだろう。それは、桜井の「手塚学校の優等生」といった仰角の視線の表現からも傍証的にうかがえる。うかがえて、そしてほんとうに共感せざるを得ないようなところがあることも共に。
 でも、「カッコいい」、はどうしようもない。どうしようもないから、ゆらぎようもないのだ、そういう意味で、永島慎二の作品は何度も繰り返し、読み直され、解釈をされ直してゆく。その桜井的な「きれいごと」と思ってしまうような自意識にとってさえも。認めて、でも違うんだよなあ、とぼそり、とつぶやく、つぶやきながら、しかしその次の瞬間には、もうおのれ自身にとっての〈リアル〉、自前の手ざわりに向かって歩き出すしかないようなものだ。
 その「違い」のかなりの部分を規定していたらしい「児童漫画」というフィルターの効果と実質とは、そのように難儀なものだったらしい。横山隆一をリスペクトしていた、と桜井の証言する永島。後に「民話」のようなマンガを、と言い始めることも含めて。現実と不器用に格闘しながら、そのものとしての表現に向かうのでなく、必ずその道行きの過程で一枚、アルチザンとして、職人として、何らかのひと仕掛けをやらかさざるを得ない性癖、いや、業かも知れないのだが、それがあるがゆえに彼の手がけた表現は、「スタイリッシュ」で「おしゃれ」なものになり、それらを介した現実はある種の意識にとっては正しく〈リアル〉なものとして立ち現れる。
 だが、永島と比べると、つげ義春、にはそのような「児童漫画」のフィルターは介在していない。不思議なほどに薄いのだ。子どものため、という縛りはなさそうだし、現実に彼がマンガを描く時に果たしてどのような読者を想定していたのかさえも、思えばあまり定かならぬところがある。強いて言えば自分のため、自己治癒のための営みだったのかも知れない。自分の抱えた現実を自分のできる手段で表現にして外化してゆく、それによって自分の現実を客体化して認識できるようにし、ひいてはハンドリング可能、再編集のできる条件を準備してゆく。それこそ、かつての「文学」における「私小説」がそんなもの、だったような意味で。
 マンガを読むのはひとり、である。言うまでもなく、読書とのアナロジーで語られるような行為である。ついでに言えば、音楽を聴くのも今やひとり、である。本を読むように、マンガを読むように、音楽を聴く、そしていまや「読む」ことも。
 日本の週刊誌メディアに代表される連載マンガ、というのは、作品のあり方として、それらの連載の場が成り立っているさまざまな情報環境――雑誌やその経済的基盤、流通のあり方の時代的制約も含めた総体、そして読者のあり方とそのリテラシーも考慮した「読み」の水準の確定……などなどにもできる限り目配りをしながら想定される前提としてのそれを、作品そのもの、狭い意味でのテキスト自体とある意味釣り合わせながら設定されているものである。ゆえに、作品論、作家論というのはそれ自体として独立して成り立つものではない。
 芸術表現としてのマンガの「質」の議論もまた、そのような作品のあり方を十全に見通す認識があって初めて、有効なものになってくる。
 マンガと「知性」の出会い、インテリ/知識人の側からマンガをとらえてゆく動きは、『ガロ』の周辺から始まった。白土三平つげ義春とその作品が、当時のインテリ/知識人の側からどのように語られ、「評価」され、価値が付与されていったのか、その過程も含めて、マンガ「批評」「評論」の「歴史」として考える視点が必要。
 真崎守(評論を書く時のペンネームは「峠あかね」)の「評論」「批評」の立ち位置。純粋に活字の側から、当時の「学問」や「批評」の水準からやってきただけでなく、虫プロの現場に携わり、初期のアニメの演出を手がけていた経験と、同時に『COM』の「ぐら・こん」(全国規模での読者投稿欄)の世話役としてのキャリア、そして何より少年誌・青年誌の一線級のマンガ作家の立場も含めて、マンガをそのようにことばにしてゆくこと、の最先端にいたひとり。
 改めて、60年代後半から70年代にかけての時期の、マンガも含めたそれら新しい「文化」――「アングラ」と呼ばれた、勃興してきたサブカルチュアたちが、当時の「若者」の日常にとってどのような意味を持っていたのか、について。それらの同時代の雰囲気の中に、当時のマンガもあり、かつ読まれていたこと。