西部 邁+平岡正明+栗本慎一郎 『情念と幻想――その現実論』

死者の総意に基いてプロレタリア革命を行う、これがぼくの立場。――平岡正明

 桝添要一が厚生労働大臣になって、テレビその他に露出することが多い。めっきりハゲて白髪も増してオッサン面になったのを眺めながら、ふと、栗本慎一郎のことを思い出した。

 大学教授でテレビその他、メディアに積極的に顔を出し、そのうち国会議員になり、党務でしばらく汗をかいて、ようやく晴れて大臣に、というあの渡世は、ほんとなら栗本がある時期おそらくはめざしていたものだっただろうからだ。なにしろ、栗本もまたかつて参議院議員だったわけで、初当選の折りなんざ、「総理大臣になる」とまで公言してはばからなかった時期もあったくらい。その客気というか、自意識肥大のほほえましさは、まさに団塊の世代の脳天気……あ、いや、正しく向日性の部分。いや、なつかしく思い出す。

 というわけで、栗本慎一郎つながりでこの本。平岡正明つながり、というのもあるか。書棚を新たに増設したので、ある程度まとめて手もとに置いておく本を持ち込んできた、その荷解きをしていたら眼についたもので、ひとまず。

 薄い冊子である。パンフレットと言っても通じるかも知れない。かつての文科系的に言えば、そうだな、白水社のレクラムやクセジュ文庫あたりの体裁にも近い。「○○文学」(○○にはフランスとかドイツなどの外国名が随意入る)がまだ輝かしかった頃の名残りだ。

 『はあべすたあ Harvester』という名前の雑誌の形になっている。「非売品」だった。当時、栗本がカルビーの社長か何かとのつながりで、自身が編集長みたいな立場で好き勝手やっていた。制作は青玄社。ってことは、そうか、ポランニーの翻訳とかも確かここから出してたような。何にせよ、栗本自身、自著のどこかで、かっぱえびせんの「やめられない、とまらない」のコピーは自分が考えた、てなことも言っていたりした。このへん、「コピーライター」がカッコいい、という当時の時代状況を踏まえて、正しくハッタリとして賞味するのがいいとは思う。カルビーとの関係も、よくある後ろ盾というか、パトロンみたいなものだったのだろう。当時、企業の文化的貢献、フィランソロフィー(笑)なんてことも言われて、代表格はもちろん、かの西武と糸井重里など。先のコピーの逸話でもわかるように、その向こうを張って、という気分が栗本にはあったはずだし、まわりの認識もそんなものだったと記憶する。まあ、その初志はともかく、80年代状況、それこそ「ポストモダン」の気分というやつを反映した民俗資料としては、例の朝日出版社のやっていた『週刊本』などと並んで一級品と言っていいはずなのだが、今や世間の記憶の果てに埋もれてしまったのか、言及する者もいない。有為転変、幻のごとし。

 座談会である。西部邁平岡正明栗本慎一郎がとりもって、というあたりが、当時一部で話題になっていた。「ポストモダン」系人脈を網羅したかのようなこのシリーズの中でも、おそらく、最も注目を集めた号じゃないか。実際、読んだら読んだでその栗本のグダグダぶり(要は酔っぱらってるだけなのだが)もまた、違う意味で話題になったりしていたし。

 西部と平岡が顔を合わした、ということだけで、お好きな向きにはたまらない、というようなものだった。なぜか。60年安保世代の「ブンド」の残党、ということがひとつ。「ブンド」は共産主義者同盟の通称で、当時の学生運動の中でも最も派手に目立っていた党派、というあたりをまず予備知識として示さないとわけわからん、だろうが、まあ、なんというか、派手に暴れた一派の中での〈その後〉の処世の違いがあり、それぞれに支持者やシンパ(このもの言いももう死語か)を獲得していたメディア(当時は「ジャーナリズム」というもの言いだったか)の寵児ふたりがついに激突、てなものだったのだ。

 平岡正明というのは、60年代の若き論壇スター、ではあった。学生時代にジャーナリズムデヴュー、「コカコーラ世代」の戦後派として学生の左翼文化に新たなスタイルを持ち込んだ。「革命を遊びに堕した」とも言われたけれどもそれはむしろ勲章で、ジャズと革命を並列に語れる感覚は確かに新しかった。一方、西部は西部で学生運動ではいったん逮捕、そして裁判で「転向」して一時沈黙、アカデミズムの中から再度登場した時にはなんと「保守」の看板を掲げて面目一新、その過程も含めて一躍、注目されるようになっていたから、これもまた同じ60年代安保世代にとってはある種のスターとなっていた。もっとも、彼らをそのようなスターにしていたのは同世代というよりも、むしろその後の全共闘世代の弟分たちが質的にも量的にも大きかったと思うのだが、いずれにしてもそういう新たに形成されてきた「論壇」「ジャーナリズム」市場においてのビッグネーム、という意味では、吉本隆明鶴見俊輔などの世代とは違う、新たな注目を集めてきた名前たちではあった。

 それにしても、タイトルからしてもう時代モノだ。「情念」のこの「情」の字が重要。同様の使い方に「情況」なんてのもあった。いずれ吉本隆明が使って流行らせたもの(だと思う)。心理や思い入れ、よりもっとこってりしてややこしい何ものか、を託そうとする気分が込められている、と解釈していい。で、並列で「幻想」とくるから、これはどこから見ても吉本の影響下にあるわけで、その意味で仕掛け人である栗本慎一郎のお里もまた、はっきり知れるという次第。

 論理や現実(主として経済的、政治的、はたまた科学的、だったりした)が未だ厳然としてあるようにみんなが思っていた状況だったからなおのこと、〈それ以外〉にも意識の焦点が結ばれてゆく。「感情」「情念」「幻想」「……もの言いはさまざまでも、そんなとりとめない(と思われていた)〈それ以外〉をどのようにとらえ、語るのか、に七転八倒することが目につくようになっていた。それは「党派」とは別の「運動」を「個人」において志向する全共闘世代において最も盛り上がったものであり、その先行者として平岡にしても西部にしても仰ぎ見られていたところがあるのだろう、と今、この時点から振り返るからこそよく見える。

 栗本抜きでサシで話したがっている、ということは工作もしたがっている西部と、それを持ち前の茫洋さでいなしている平岡の対比が印象深い。平岡正明理解については人後に落ちないと自負しているあたしとしても、ここでの彼の芸風はすでに確立されていることを痛感する。

話が存外合っちゃうのは無念、とたがいに言うのが礼儀だろう。それぞれの幼児型の神話(民話?)を保存したままで、そうたやすくは成熟するものかと努力として、一人はドラキュラになり、一人は次郎長ファンになり、一人は大衆社会下の物神化現象批判に向ったのだから、元の追分道からは遠く来たぜと言わねばならぬそれぞれの立場を尊重して「あばよ」というのが礼儀なのだが、その夜、時間がたっぷりあれば夜を徹して壮語したい気持はあった。

 西部が正面から論陣を張るところを、平岡は聞き手にまわって「受け」に徹し、隙を見てはギャグとテーゼのブロウをかます、というやりとり。でも、互いに尊重しているのがありありで、後に聞こえてきた噂では西部の方がむしろ気を遣っていた、と言われていたのも、それだけ平岡の「豪傑」伝説が同時代に浸透していたということだろう。「犯罪者同盟」から谷川雁との大喧嘩、当時の多数派だった吉本エピゴーネンたちをひとくくりに「自立小僧」と揶揄しての憎まれ役ぶり、など、逸話には事欠かない。それほどまでに「ジャーナリズム」は舞台となり始めていた、という意味でも、このあたりの事情はそろそろ「歴史」として語られ直すべきだと思う。っていうか、ご本尊に聞き書き、これっきゃないな。四方田犬彦みたいなサベツ感覚丸出しの小手先オマージュされてまとめられてたんじゃ、浮かばれないってもんだ。
■初版1981年 編集・はあべすたあ編集室 制作・青玄社 非売品

もちろん、はまぞうに書影があるわけない……

 平田 寛 『失われた動力文化』

ところがここに、労働と技術を尊重してそれを実践した集団がいた。それは、仕事で手をよごすことをけがらわしいとみなしていた貴族や知識人がつくった修道院である。そこは、禁欲を守り、清貧にあまんじ、熱烈な信仰に燃えた修道士たちの自給自足の場であった(…)知識人たちが進んで労働したということ自体は、かつてなかった出来事であった。そして、たとえば神秘主義のスコラ学者サン・ヴィクトルのフゴ(一〇九六−一一四一)でさえ、人間が完全になるためには自然を手段にすべきだと説き、自由七学科のほかに、機械技術を、布織り、兵器の鍛造、航海、狩猟、医術、演技の七部分に分けている。

 かつての大学、少なくとも文科系には、「学問」といういささかいかめしいもの言いにみあった雰囲気のあるセンセイ、というのが確かにいた。見てくれはただのしょぼくれたオヤジやジイさまだったりするのだが、でも、講義で指定されたテキストを近所の古本屋で拾い、眠くなるのがお約束の退屈な午後の教室はうしろの隅っこあたりでぱらぱらめくっていると、あれま、このオヤジが執筆した本とおぼしき箇所が結構、それなりに尊重されつつ引用されているのを発見して、改めて大教室のはるか向こう、教卓のあちら側で微妙にうごめきながらごそごそしゃべっている、くすんだそのオヤジ物件を眺め直したりしたものだ。
 そういうセンセイは、なにげに新書を書いていたりもした。なにしろ、もっと前なら大学定年の頃に岩波新書を一冊書けば、うまくゆけば家作の一軒も持てるくらいの印税が……と言われていたキラーコンテンツ。時代は違うが、これもひとまずそんな岩波新書の一冊。著者の平田寛という人は早稲田の文学部の教員。西洋史を出て「古代科学技術史」が専門。いまどきのネット環境で少し検索をかけてみても、同姓同名の学者が他の分野で現役オンステージだから、この御仁自体はもう忘れられているのかも知れない。でも、岩波新書の本体のみならず、ジュニア新書でもいくつか地味に定番になっているものを書いていたりする。それくらいには出版社からも信頼された学者だったということだろう。残念ながら講義は聞いたことがない。学部が違ってたし。
 それにしても、「西洋史」という看板自体がもう、「学問」という字面と共になつかしさを喚起するなあ。西洋/東洋、という区分もまた、文科系/理科系と同じくらいに「近代」のニッポンの大学のもの、だったわけで。蒸気機関が発明させる以前の無公害といわれる動力(人力、畜力、水力、風力)とそれらを利用した動力機関(原動機)を中心に、その社会的、文化的な背景や影響を顧慮しながら述べたものである」という「はしがき」の一節からして簡潔にして明瞭。「公害」が社会問題化していった70年代半ばに書かれたものだけに、「読者の方々が、これらの要因や公害の問題に取り組むには何よりもまず歴史的な考察からはじめるべきだという認識を、本書によってすこしでももっていただければ、この上なく幸いである」という言挙げも、時代背景と共に結構しみる。
 当時、科学史、工業史といった分野が、社会的に多少はめざめた、別の言い方をすればこまっちゃくれた文科系学生の間で注目され始めていた。明治このかた、文科系/理科系、の分断状況の弊害は言うまでもないけれども、逆に言えばその分断があったから当時、そんな新たな「発見」を文科系の側からしていったのだし、さらにまたそれが推進力となって「公害」問題から後のエコロジーなどにつながる問題意識の流れができていった、という面もないではない。そうそう、ついでに言えば「身体」とかそっち系への関心も、基本的に同じ流れから派生していたような。自然、環境、科学技術、身体、さらに女性とか弱者とか……社会を経由してもう一度、「自分」の身のまわり、等身大(このもの言いも最近、陳腐化が始まってるが)のところに問題意識を引き寄せる、そんな手さばきが時代の表層に現われてきた頃、だったのだと思う。
 フラップの見返しに記された内容紹介のコピーもまた、そんな当時の岩波新書の編集者の気分が反映されている。

「技術」の語源をたどれば、「芸術」と同意義であり、かつては手工業者と芸術家が同じものだった時代もあった。

 手工業とアートが等価である!――これは当時、ある種の若い衆ならばかなりグッときたはずだ。少なくとも、大学のカリキュラムの中ではそんな並び方はされないわけだし。
 あたし個人としては、確か畜力、牛や馬を利用した動力文化の歴史の概要を知るために買ったものだと記憶するが、こういう「もの」に即した等身大の技術については、当然、民俗でも関心の中心にあったわけで、法政大学出版局がしぶとく出し続けていた「ものと人間の文化史」のシリーズなども含めて、個人的には決して本筋にはならない、なれない領域ではあるものの、でもやっぱり視野に入れておかないことには話にならない、という認識でそれなりに読もうとしていた。個別具体の微細なところから現実の〈リアル〉へ関わらせてゆく腕力、みたいなところが、やっぱり魅力だったし。
 ものを動かす、ためには「力」が必要、それこそがpowerなわけで、でもその圧倒的な力感みたいなものが日本語の広がりでは案外伴わないまま。それは蒸気機関からその他の内燃機関、電気やガス、そして原子力に至るまでも変わっていない。たとえば、御巣鷹山日航機のあのヴォイスレコーダーに記録される「パゥワー! パゥワー!」という響き。あるいは、初期のシムシティ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3 で最初に発電所をどこに建てるか考えるよう指示された時の、あの感覚。現実を成り立たせて動かしているのはどのような意味でのそんな「力」=powerである、という認識を持たないことには、それこそ「権力」(ああ、これもpowerの訳語だったな)に至るまで〈リアル〉になることはないんだろうなあ、ということは、この小さな新書を初めてめくった時から漠然と、心の中にわだかまっていたような気がする。

■初版 1976年 岩波新書

失われた動力文化 (1976年) (岩波新書)

失われた動力文化 (1976年) (岩波新書)

 

 平岡正明 『ボディ&ソウル』

知性はその低次の段階では二枚目としてあらわれ、やがて発展して三枚目にいたる。ついに最高の発展段階として実現するものは無手勝流であろう。

 もうから平岡正明かよ、と呆れる身近な誰それの顔つきが、この上なく具体的に見える。見えるが、知ったことか。ひるまない。そう、もうから出すよ、平岡正明を。
 いまや圧倒的に忘れられている。いっそ潔いくらいだ。けれどもこの御仁、かつては間違いなく売れっこライターのひとりだったし、いや、それ以上に確実にある影響力を同時代の広がりの中に持ち得た、希有の才能だったのだからして。
 かくいうあたしが、そういう“信者”のひとりだったかも知れない。年格好からすればいささか出遅れ、世代的にはほんとの信者(団塊の世代半ばからあと、実は団塊直後くらいがその中核だったと思われ)のストライクゾーンからはかなりズレたところにいたことになるが、それでもその書いたものから受けた恩恵は正直、計り知れない。柳田國男の次にいきなり出てきちまうのも、理由があるのだ、あたし的には。
 無慮数十冊の著作をすでに世に出している。そのほとんど全てが今や古本市場でしかお目にかかれず、それどころかロクに古本屋の目録にも記載されず、ゆえにもう二束三文の市場価値しかない。だからこうやってあたしごときが何とか救おうとするしかない。
 特にここ十年あまりはまさに同じネタをしつこく反復、それってもう何度も聞いたよ、と言いたくなるような次第だけれども、でも、これはこれである知性の「老い」方を考える上で、山口昌男などと共に非常に興味深い事例になっていたりする。ついでにつけ加えるなら、それが単なる耄碌というわけでもなく、なんというか、古典落語を何度も語り直してゆく中にそこはかとなく宿ってきちまうアウラ、とでも言うようなものが、確かに漂っているから始末が悪い。もちろん、そんな愉しみを味わえるこちら側自体、すでに絶滅確定品種なのだろうけれども。
 あまたある著作の中で、平岡正明のうまみをすんなり味わおうと思うのなら、この『ボディ&ソウル』などから入るのが、案外いいのだと思う。山口百恵でもなく、極真空手でもなく、もちろん最近ちみっと提灯のついたチャーリー・パーカーやマルコムX、60年代ジャズ喫茶談義などでもなく、間違いなく「左翼」が「教養」の重要な一環だった時代を後ろ盾にして初めて十全に味わい読み尽くし得る内実を持った、ことば本来の意味での民俗資料、同時代を省みるためのテキストとして。
 身体を伴った文章、というのが具体的にあり得る、そのことをあからさまに教えてくれた。最も初期の平岡正明というと、かの『赤い風船』だの『地獄系21』だの、才気煥発、縦横無尽な左翼丸出しアジテーション論文が主体なのだが、じきにそこからグッと「場」に就き始めて、本来の才能がはっきり見えてくるようになる。当時は「ルポ」というもの言いはまだそれほど一般的でなく、「ノンフィクション」というのも同様に未だし、の段階。「トップ屋」という蔑称がようやく人口に膾炙し始めたくらいの頃に、あら不思議、そんな「場」に就いた身体ある文体(妙なもの言いになっちまうが)がひょい、と宿っちまった、そんな感じなのだ。
 ここに収録されている「反抗気分に浸透した初期吉本の戦闘性」と題された一文など、その見本。1959年11月27日、全学連の国会突入三日前に読了したことが裏表紙に書き込まれてある一冊の本、吉本隆明『芸術的抵抗と挫折』から書き起こし、当時の自分と自分をめぐる微細な状況をゆったりと描写し、友人Eの部屋からその父親が社会党員で板橋区議だったこと、さらにそのEをオルグしようとするIという共産党員のことなどを思い出話風に語って聞かせながら、そのEの部屋(自宅だから「細長い八畳洋間」という、当時としてはかなり恵まれた空間)が「文学少年たちの屯所であり、喫煙室だった」ことを明記、そして次にこうスパッ、と切り出す、ああ、その間のよさよ。

それから半年後、人にかくれて煙草を吸ったり、ランボーやサドを読んで圧倒されていた文学少年たちが、大学に入るとともに、レッキとしたトロツキストになる。ヨヨギ共産党反革命と正面からあびせかけるようになった。

 時代、というものをひと筆で切り取ってしまえることが可能なこと。そのような才能が介在して、民俗資料にもまた「質」が問われるようになること。そんなことを平岡正明が教えてくれた。

吉本隆明の影響はあったか? あった。もしかすると初代自立小僧は俺だったかもしれないくらい、あった。(…)奥付をみると、一九五九年二月二五日第一刷のもので、つまり初版だ。定価三五〇円とある。買った場所は池袋東口の新栄堂だ。この記憶にはまちがいない。谷川雁の『原点が存在する』を買ったのは西口の芳林堂で、この店でくれるおまけの布製のしおりがよかった。吉本隆明の本は未来社刊で版を重ねても装釘は同じだったが、谷川雁の弘文堂初版本は、表紙にカンテラを照らして鉱内労働に向う鉱夫を描いた木版画を使ったものでなかなかすてきだ。
この時以来、吉本隆明谷川雁とのちがいは、俺には池袋東口と西口ほどにもちがう! これは大変なちがいであって、いまだに極真会館とパルコほどにも池袋の両サイドはちがう!

 ニヤッ、とするところ、だったのだろう、かつては。吉本と雁、極真とパルコ、をひと重ねにして貫いてみせる、それがまさにセンスであり「芸」でもあった。でも、今やその背景からていねいに、まさに古文の解釈をいちいちしてみせるように説明しないとわからなくなっている、それが2007年の〈いま・ここ〉であるのも、また確かだ。
 それでも、だ。この平岡正明の「芸」は滅びない。滅びさせない。日本語という母語の広がりの中で、確かにそういう「芸」はあり得るのだし、これからもあり得るべきだと思うからだ。そして、民俗学者の「読み」とは、そんな依怙地な信心と貼り合わせにかろうじて成り立っていたりする。
 ちなみにこの本、平岡正明の経歴においては、ちょうど極真空手に入れあげ始めていた時期、「運動」としてはポナペや西サモアに実際に足運ぶようになっていた頃にあたる。朝倉喬司船戸与一など、70年代出版社系週刊誌ジャーナリズムを底辺から支えた屈指の「現場」派が周辺に集まって、本来きわめてブッキッシュでテキスト主義者のはずの平岡正明の「身体」を刺激し、鼓舞するような、いいめぐりあわせになっていた頃だ。論文(もちろん学術論文、という意味ではなく「左翼」「教養」デフォの時代における語義の)集として初期〜中期平岡正明の到達点だと思う『南方侵略論』や、当時、四谷のスナック「ホワイト」でやっていたDJ(というか、トークライブ)の、これまた希有な同時代記録『一番電車まで』など、おのれの「身体」に覚醒し始めたもの書きとしての平岡正明を知るには好適な本は他にもあるけれども、これまた改めてということで。

■初版 1981年 秀英書房

はまぞう、に書影も記録もなし・゚・(つД`)・゚・ )

 柳田國男 『青年と学問』 

そうして現在この我々の目前に、政治と名づけて若干の或る個人の考えが、国民全体の共同生活の方向をきめること、またはこれをきめうる地位に立つ者を指定する選挙という仕事、あるいは経済行為と名づけてなるべく簡単な方法をもって、楽に自分自分に都合よき生活をして行こうという計画など、およそ人間が怒ったり喜んだり笑ったり奔走したりするこの世の中の現象は、ことごとく今我々の学んでいる歴史というものの引き続きであることを、一方にはまたそういう深い意味のあることを知らずに、なんとなく毎日我々が活動しているのが、その瞬間を過ぎるとすぐに「歴史」となって、永く後代何百千年の同国人に、それぞれの影響を与えるものだということを、はっきりと我々に感じさせるのが、この学問の本来の趣旨であった。

 とりあえず、このへんから始めるのがいいかな、というわけで、やはり、柳田國男である。
 柳田國男。日本における民俗学の枠組みをこさえた先達。しちめんどくさいこと抜きにして、なおかつ思いっきり端折ってたとえて言えば、マンガ界における手塚治虫、アニメ界における宮崎駿、みたいなものだ。異論は山ほどあるだろうが、この場では認めない。
 学問を一からこさえる、というのが果たしてどういう事業だったのか。今となってはそれ自体がもう、何のことやら、だろうが、とにかくひとつの学問の守備範囲から対象、方法などもさることながら、何よりもその趣旨に共感する仲間を全国から募って組織を立ち上げた、オルガナイザーとしての手腕がその本質。そう、「政治」なのだ、彼の学問は。他でもない、彼自身がそう言っている。もちろん、今ある「政治」学、などよりずっと意味が広く、深く、かつだからこそとりとめのないものでもあること、言うまでもない。

せっかく百科の学は精透の域に達しても、全体の組織綜合の学問というものが欠けている。そんな学問があるものかと怪しむ人もあるか知らぬが、たしかになくてはならぬので、その証拠にはげんに放任してあるから調和ができぬのである。久しい昔から現在に至るまで、「政治」という漠然たる語で、暗示せられている一つの学問がそれに該当するのである。

 民俗学とは、日本に宿った民俗学とは、そういうとんでもない射程距離を持っていた。少なくとも、その言い出しっぺ柳田國男の想定した段階では。
 もとはというと、東京帝國大学を出た明治政府の内務官僚である。今風に言えば、東大出の高級官僚。貴族院(というのは、つまり今の参議院)書記官長までやって、思うところあって四十代になって官を辞し、その後ずっと民間の学者&もの書きとして生きた。またもや今どきならばフリーランスの評論家、ないしは作家というところ。もちろん、時代も状況もまるで違っているのだけれども。
 その彼の、これは講演集である。あちこちで求められてしゃべってまわっていた、その講演草稿をまとめたもの。時代は1920年代半ばから後半、というから大正末から昭和の初め。見事に戦前、今から80年ばかり昔だ。相手は主として、小学校の教員や地元教育会の有志といったところ。これは彼が組織としての民俗学を考える時に、その会員として真っ先に想定された層でもある。
 だから、きわめて調子が高い。煽ってアジっている。学問は世のため人のため、役に立つものなのだ、だから自分ひとりの利害や損得、出世や栄達のためでなく、勉強したくてもできない同胞になりかわってやる気概を持とうじゃないか、借り物のことばでつむがれた今の歴史ではない、ほんとに誰もが納得できるそれぞれの体験に根ざしたほんとうの歴史のための学問、つまりはこの民俗学を!……とまあ、一部始終語りっ放し。何十年も前のものなのに、不思議なことにいつ読んでもこれ、ひきこまれる。その気にさせられる。
 で、こんな壮大かつ遠大な志で立ち上げられた民俗学が、その後数十年でさて、どれだけ腐り果てて役立たずになってしまったのか、については、また別の大いなるお話、であります。

 ……あ、忘れてた。岩波文庫版の神島二郎の解説がこれ、絶品。凡百の民俗学についての解説なんざ蹴散らすデキ。思えばこの御仁も、丸山真男の弟子でいながら最晩年の柳田門下、という、文句なしの外道だった。
■初版 1928年 日本青年館

青年と学問 (岩波文庫 青 138-2)

青年と学問 (岩波文庫 青 138-2)