源了圓『義理と人情』

 新書も文庫も、単にその判型だけの意味にしかならなくなって、中身もまた以前とはまるで違う薄さになっちまった。薄いったって「束」のこっちゃない、中身内容もだ。「単行本」「単著」が新書と同義になってるところもあったりするから、もうこれは「本読む老害」としては、にわかに受け入れるわけにはゆかない。

 それなりに功成り名を遂げた「碩学」(これももう言わなくなった)が、その知識見識見聞その他、惜しみなく駆使して、世間一般その他おおぜいの中の活字読む手癖のついちまった界隈に向けて書くのが新書だった時代の新書は、昨今古本屋の店先でもひと山いくら、いや、今や路面店開いて古本屋すら絶滅危惧種だからネット販売の画面でもヘタすら本体1円から、いくらでも拾えるようになっている。そんな中から、かつてまだこちとらケツの青かった頃の記憶を甦らせるかのように、30年もその上も昔の新書を拾い上げては持ち帰る、そんなことも遠くご当地暮らしの隠居の日々、無聊の慰めの一環としている。

 本書も、そんな一冊。広い意味での思想史・文化史ということになるのだろうが、それにしても「ゆるい」印象は今となっては否めない。しかし、だからと言って軽んじていいかというとそうじゃない。こういう「ゆるい」記述でゆったりと語ってゆくような、そんな新書ならではの「教養」の気配というのも、すでに「歴史」の過程に組み込まれつつあるらしいことを十分に思い知りつつ、なお味わってみる値打ちは十分にある。

 副題は「日本的心情の一考察」。いまどきの博士号持ち当たり前な世代の感覚などからすれば、「こんなのただの個人の感想文ですよね」で一蹴されるかも知れない。いや、たぶんされるだろう、いともあっさりと。註も参考文献も、いずれそういう「論文」の正しい形式は初手から踏まれていない、何を根拠にこんな能書きダラダラ並べとるんだろう、こんなのありがたがってたんだから昔の人文系ってほんとお花畑だったんだね、といった「いまどきのボクたち優秀」言説のルーティンが繰り出されるありさまがありありと見えるし聞こえる。何も驚かない。
 「ただの個人の感想文」――そう、だとしても、それが何か? 敢えて、そう言わねばならない、そう思う。昨今のような日本語環境での「人文社会系」のありさまだからこそ、なおのこと。

私は、義理の問題は、最後的には「義理と人情」の問題として構造的に把握すべきだと思っている。このさい「恥の文化」という規定だけでは、義理・人情の問題の解明は不可能である。もともと外的生活規範であった義理すらが、時には心情化されている。まして義理が生活の場で機能するときのすがたである「義理と人情」は心情的側面をぬきにしては理解されない。そしてこのとき、「恥の文化」という『菊と刀』におけるベネディクトの規定のほかに、「情と共感の文化」という規定を加え、「恥と共感の文化」というコンテキストの下に、義理・人情の問題を考察する必要があると思う。

 本書初版刊行は1969年。R・ベネディクトの『菊と刀』の衝撃が、日本語環境での人文社会系にもたらした余波余震の類の深刻さというのを、改めて思う。思って、そして、ああ、この時期にもなお、とも。だって、この「日本」を「文化」という切り口であっさり切り取ってみせる、その手口自体がそれまで見たことのなかったもので、しかもそれが少し前までの敵国あの鬼畜米英の手によるもので、さらに加えてオンナの書いたもので、ともうそれはそれは「敗戦国」としての戦後を思い知らされる上で大きなきっかけになった一冊。それは後に、中根千枝から何から有象無象玉石混淆ひっくるめての「日本文化論」をゾロゾロ戦後の出版市場に流通させることになったのだが、本書もまたそんな流れの中に生まれた仕事のひとつ、と言っていいだろう。堂々の、そういう「日本文化論」ではあるのだ。

 「義理と人情」という成句に近いもの言いに込められてきた、われら日本人のココロの来歴についてしぶとく、しかしどこまでも自分の手の裡に入れたひらたいことばともの言いとでつづってゆきながら考えようとする。決してひとりよがりではなく、読み手の側に共感を促しながら、その読み手たちの裡に共有されていて、そして書き手の自分にも同じものがあるはずの部分を確かめながら、語られるようにつづられてゆくことばの調子。「教養」というもの言いが、こういう人文系の話法と確かに相伴ないながら世に流通していた頃の、まぎれもないすでに「歴史」の一部に織り込まれつつあるらしいありさま。

日本文化の性格については、いろいろの側面からの規定が可能であろう。しかし、多くの規定の仕方の中でも、とりわけこの「情と共感」の文化という規定は最も有力な規定の一つであろう。この日本分かの情的・共感的正確は、日本の風土に由来しよう。自然との関係が社会における人間関係、またそれを支える心情に発展し、そして文化形成の基礎的パターンとなったと考えられる。

義理は個人の傾向性に反した義務とか、道徳的格律とか、社会的責務という性格をもっていない。「傾向性―義務」が西欧社会の内面道徳の軸であるとすれば、「権利―義務」ということはもやはり西欧社会の他の軸、すなわち外的社会規範の軸であろうが、情的でパーソナルな人間関係において成立する「義理―人情」はそれとも異なる。だとすれば、われわれは「義理と人情」を、西欧的な意味での「公―私」とに置きかえる試みを放棄しなければならない。

西欧と日本、この圧倒的な「比較」の軸の盤石さの気配に嘆息する。そしてそれはおそらく、今も基本的に変わっていないはずなのだが、その「変わっていない」こと自体がもうすでに、〈いま・ここ〉の内側からは自覚できなくなっている。

このように義理という生活規範には、好意を与えた人と好意を受けた人とのあいだの人間関係が長期にわたって存続すること、さらに彼らの所属する社会が閉鎖的な共同体であることが、その成立の基本条件である。

1920年生まれ、大正ネイティヴ世代の著者がおそらく自明の前提としてきて、そして高度経済成長期までの生活経験においても、ほぼ自明であったような「日本」のありようがここにある。そして、それはすでにもう「歴史」の相に織り込まれつつある。そんな前提を改めて、〈いま・ここ〉の自明にしておかないことは、これらかつての「人文系」の「教養」を、その可能性と共に「読む」ことはできなくなっているらしい。

つのだじろう、と「取材」という作法

サムライの子、はバタ屋の子

つのだが「サムライの子」を描く前年、1961年1月から7月にかけて同じ『なかよし』誌に連載し、その年の第二回講談社児童漫画賞(現在の講談社漫画賞)を受賞した「ばら色の海」は、横浜のダルマ船に住む水上生活者の子どもたちに取材した作品で、すでにこの段階で彼の「取材」を介した創作作法が現れている。

「ある日、ぼくは横浜に行き、夕映えの港の停泊する大きな外国の貨物船の間を、いそがしげに働いているダルマ船の群れをみた。その船の中に、ぼくは子供がいるのに気がついた。いったい、あの子たちは、どんな生活をしているんだろう?学校は……? そして、ぼくは横浜にかよった。水上生活の子供たちの学校は、横浜の丘の上、山手町にある「水上学園」だ。ぼくは、職員の宿直室に、先生と一緒に寝、そして子供たちと仲よしになった。学校一のかわいい女の子(?)りよ子ちゃんの家(ダルマ船)へも遊びに行った。」(「あのころの思い出――“あとがき”にかえて」つのだじろう『ばら色の海』所収、朝日ソノラマ、1968年、p.238。)

この単行本の巻頭に清水慶子(社会学清水幾太郎の妻として当時、翻訳家・評論家として活躍していた)による推薦文が掲載されていて、そこに当時のつのだじろうの颯爽とした新進気鋭ぶりを彷彿させるこんな一節がある。

「今、私は一枚の写真を見ています。それは、つのだじろうさんが美しい人とならんで、大空の斜めに回転展望台の上から笑っている写真です。「私どもこの度結婚いたしました。どうぞよろしく。」と添え書きしてあります。これは、昭和三十六年秋のことです。その秋の彼は、「三冠王」と友人たちにいわれました。新居新築、結婚、そして講談社第二回まんが賞をみごと受賞したからです。彼は、まだ二十五歳でした。」(清水慶子「つのだじろうさんと「ばら色の海」」、つのだ前掲書所収、p.7)

これに続けて、彼女自身がこの時の選考委員でもあり、つのだの作品を強力に推したことも紹介されているのだが、そのほぼ同じ頃、清水は「日本の子どもを守る会」の「悪書追放運動」の一環としての当時の児童漫画に対する抗議集会に「母親」代表的な立場で参加し、出版社や作家たちに当時の児童漫画に対する不満を投げかけたりしていることなどを考えあわせると、そんな彼女の当時の眼につのだの表現がどうやら圧倒的に素晴らしいものに映ったらしい、そのことの内実や背景など含めて、いろんな意味で興味深い。ちなみに、彼女は1906年生まれで当時すでに55歳、1936年生まれで25歳だったつのだとは30歳の年齢差があったことになる。

「やはり「ばら色の海」は、当時の少女まんがの分野にさわやかに新風を吹き送った異色の力作だったのです。(…)あの頃も、そして今でも、どうして多くの少女マンガはレベルが低いのでしょう。どれも同じようなグロテスクな大目玉と細い手足をした少女の絵。暗く、さびしく、なげきと涙のそらぞらしいお話。いったい作者たちは、新しい教育で育っている今の少女たちをどう受けとめているのでしょうか。こうした少女ものが氾濫する中で、つのだじろうさんがつぎつぎと描いていった少女まんがは、新鮮でした。」(清水、前掲、pp.7-8)

サトウハチロー『僕の東京地図』

SIU2015-12-23



 古書の書評、というのはあまり見たことがない。いや、その筋の趣味人好事家道楽者の界隈には紹介言及ひけらかしな蘊蓄沙汰はそりゃ古来各種取り揃えてあるものの、それらは概ね書評というのでもなくお互い手のこんだマウンティング、こじれた相互認証の手続きをそれぞれ身もだえしながらしちめんどくさく垂れ流しているようなシロモノが多い。つまりそこでは古書は単なるダシでしかないわけで、その臭みが時にどうにも疎ましかったりする。加えて昨今、web環境の進展に伴いそれまでともまた体臭の違う基本フラットでマイルドで清潔で、しかしその分どういうものか無自覚に無礼で不遜で可愛げのない古書いじりの増上慢が横行し始めていたりするのでなおのこと。そもそも書評というのは評する主体、「読む」側の器量が良くも悪くも映し出されちまうおっかない形式のはずなのだが、メディアの舞台でのそれは新刊書に対するブックガイド、それもある時期からこっちはとにかく業界事情や世渡りの思惑まみれで当たり障りのない広告宣伝提灯持ち的役割が主だったせいだろうか、いずれにせよ新刊書でない古書をめがけた書評というのはやはり需要がないということには昔も今も変わりないらしい。
 思い返せば、未だ懲りもせず刊行される新刊書にまともに興味関心を持てなくなっても久しい。ぶっちゃけ今世紀入るあたりからこのかた、あ、こりゃ気力体力のムダかも知れん、と思い切り、もう積極的に新しい本を追いかけられなくなっちまった。その分、手元にためこんじまった古書雑書ゾッキ本その他の紙のボタ山からとっかえひっかえ、いや、それでもまだ新たに少しずつ積み増しもしながらだけれども、いずれためつすがめつ繰り返しめくっては付箋を貼りメモをとり、気が向けばやくたいもない備忘録や断片をあてもなくつづってみたり、てなことばかり宛も目算も特にないまま日々の習い性にしてきているここ十数年。いやいや、なんのこれもまたひとつの現場、紙の意気活字の野戦感覚を磨いてゆく稽古演習の過程と、表立っては口にはせぬがそっとつぶやいて心励まし、またぞろ眼前の山からひとつ抜き出しては持ち慣れた頭陀袋ひとつに収めてさて、今日もまた同じような日々の道行きが始まる。

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 サトウハチローの『僕の東京地図』(1936年 有恒社)は、そんな日々の道行きにつきあってもらっている常連のうちの一冊。初版は昭和11年だから、ざっと80年ほど前の新刊だけれども、なめちゃいけない。未だいつどこから開いてもそのたびに新鮮な発見、枝葉の如く繁ってゆくイメージやとりとめない感興がこの老化著しい脳髄まわりからでさえ惜しげも無く引き出されてくるのははて、ほんとにまったくどうしてなんだ、と不思議がってばかりでもうずいぶんになる。
 戦後、昭和21年に労働文化社から、そしてまた最近2005年にネット武蔵野というという小さな版元から、それぞれ復刻というか同じ書名で出されていたりするが、残念なことに中身が端折られてたり新たに書き足されたとおぼしき部分もあったりで、まあその分行って帰って値打ちは相殺かも知れんのだが、それでもやっぱりここはもとの版、首尾一貫した調子で当時の〈いま・ここ〉、時代の空気がその微粒子のようなものも含めてしっかり締まったおさまり具合になっている元祖が格別。さらに言えば、こちとら手もとの色褪せ朽ちて背表紙あたりなんざ手垢まみれのボロボロになっちまってるこの裸本こそが好ましく、また手になじんでもくれるというもの。なじみの店のオンナのコのようになつかしい。

僕の銀座、君の銀座、あなたの銀座、わたしの銀座。気取っていふならば御身の銀座、わがための銀座。おッかなくいふならば貴様の銀座、小生の銀座。ざッくばらんにお前の銀座、オレの銀座、そなたの銀座、わらはの銀座、主の銀座、わちきの銀座、旦那の銀座、マダムの銀座、若人の銀座、老人の銀座(あゝきりがないきりがない)ことほどさように、われ等の銀座である。

 詩人である。だからかように「うたう」のである。うたいながら、まちを堂々、往くのである。
 流行歌でも童謡でも、戯作めいた随筆でもなじみの食い物屋の宣伝文句でも、もういっそすがすがしいくらいに一貫したリズムと調子でその持ち前の愛嬌と共に押し通して、しかし素朴な「うた」の呂律を手放さない。それでいてどこか知らぬ間に「はなし」にもつむいでつないでゆける、そんなことばのありようがわれらがサトハチの書きものの本領。何も「文体」などという裃つけたもの言い持ち出さずとも、これは立派にひとつの「個性」、輪郭確かな書き手の骨太なたたずまい、彼の書いたものどれもこれもにずん、と貫かれているゆるぎない味わいの源泉なのだ。

「浅草は、僕の第一の故郷だ。ふるさとのなつかしさは、かくべつだ。浅草へ行くと、誰もが(いや待てよ)何でもかんでも僕に會釈する、あいさつする、肩をたたく、迎へてくれる。僕ばかりではあるまい、浅草はさういふところなのだ。

 冒頭、いきなりの浅草、そしてまた浅草。小さい頃から文字通りうろつきまわった盛り場の個別具体、細部のあれこれが、しかしあくまでも彼の身の裡の体験や記憶を介して改めて眼前に開陳されてゆく心地よさ。
 食い物がひとつターミナルになっているのも「健康優良不良少年」サトハチならではだけれども、本拠地浅草で景気をつけて、そこから上野、木場、お茶の水から神保町に四谷、向島へ飛んだと思うと池袋にとって返し、大塚界隈をうろうろする。そして銀座、僕の銀座あなたの銀座にしばらく逗留、夜と昼との相貌の違いなどにも筆を走らせ、牛込に早稲田、小石川から本郷帝大ときて、山の手の新興盛り場新宿はムーランルージュ三越裏、再び四谷あたりから神宮外苑日本橋に蛎殻町、薬研堀からずっとまた下町へ足を向けて月島佃島に八丁堀、再度の上野は動物園に帝室博物館、谷中へ抜けて三崎町から團子坂、千駄木白山巣鴨中里、果ては田端瀧野川まで出かけてゆく。返す刀で靖国神社芝公園、放送局はNHKで麻生十番から品川へとくだって新興大森蒲田の賑わいにも首を突っこむ。このへんから仕切り直し気味に再び伝手と記憶をたどりながら浅草吉原下谷あたりをここはゆっくりこってりぶらつきながら、丸ビル日比谷に帝劇、そして東京駅でめでたく打ち止めという次第。もとは『東京朝日新聞』の連載だったと聞くけれども、なるほどそれぞれひとまとまりはコンパクトで見通し利く範囲で、何より活きの良いまますんなり読めて肩も凝らない。ひとり散歩のそぞろ歩きの、そして時には当時の同時代気分を表象する、彼も好んで使ったあの「行進曲」の速度とテンポで昭和初年、帝都の〈いま・ここ〉がこちとらの身のうちに響きながら、いつしか何かしらの像、具体的なイメージをすらしっかり結び始める。

尾張町近く森永のキヤンデーストア−。そこにはラツピングマシン。譯して自動包装機といふ。チョコレートクリームと板チョコが、自動的に包まれる機械だ。(…) 電車通を越えませう。池田屋本店なる毛皮屋がある、そこに熊がゐる。勿論ハクセイだが、こごみかげんで、歩いてゐる姿だ、背中につくりものの鮭を一匹背負ってゐる。小學讀本で教はッたとほりに、ちゃんと笹の小枝に通してゐる。笹の葉はすッかり枯れてゐる。(…)すぐその先が、丸八ァ銀座のノミトリ粉の松澤八右衛門だ、丸八丸八と覚えてゐて、松澤といふ姓だとは僕もいままでは気がつかなかッた。右のかざり窓には畫帳などがづらりとならび左の方にはこれ又サボテンがマスゲームしてゐる。(…)さて向ふ側だ。愛するカフェーキリンがある、ビールもうまいし、サンドヰツチもうまい、だが、こゝの飾窓の小さい牛のつくりものだけは、裏へ片づけていただけないかしら。その昔浅草のちんやに、牛のはらら子の瓶詰が、かざつてあつたのと、同じ効果を銀ブラ族にあたへると思ふが、いかがでございませうか。

 その頃、たとえば新感覚派などがマジメに本気で目指していたとされる当時のモダン相、都市部の新たな〈リアル〉の速度や猥雑、全方向に喧噪がひしめきあう日常の体感を、できる限り見たまま聴いたまま感じたままに、調律されたことばにおろしてゆく営み。それがこんな形でいともあっさりと、衒いも何もなく無造作に放り出されてあるように見える。才能だの技術だのじゃない、それ以前の「育ち」の違い、生まれてからの日々の過ごし方がどうしようもないまでにその他おおぜいの凡俗とは違っていた、そういう「違い」の否応なさとそれゆえの当時としてはまだちょっとあり得なかった早すぎた「ひとり」のありよう。間違っても当時のブンガクになどそのまますんなり向かうことのなかった天然自然な「表現」への欲求。ああ、今だってもしもこんな具合に書けたら、声に出してうたえたらどれだけ気持ちいいだろう、と素直に憧れのココロを引き出してくれる一冊なのだ。
 忘れてた、この本、装幀も挿絵もなんと横山隆一。文中、とりあげた店などの広告もさしはさまれていて、それも彼の手によるとおぼしきものが混じっている。ある種広告がらみの企画だったのだろうか、そういう事情も含めて「読む」ことの愉しみを満身で受け止めてくれるブツであること、申し添えておきたい。

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京橋の新川位お稲荷さんの多いところはない。酒問屋では大てい一つづつお稲荷さんを持ってゐる。僕が行った時も、寳録稲荷のお祭で、余興數番ありなんていふ書きビラが電柱に貼りつけてあつた。
 福徳、入舟、舟玉、寳録(あ、この下にみんな各々稲荷といふ字がつくんですぞ)もう一寸大きいのに、大栄稲荷といふのがある。新川一の三だ。こゝの神主さんを小平勝次郎といふ。昔なら、父と兄と二人を討たれて、仇討ちに出さふな名だ、名は二枚目だが大分しなびてゐる。これが、木やりの研究家だ。いまは神主をしてゐるが、もとをたゞせば鳶だ。火事の時の筒先きのお職(うれしい名ですな)だッたといふから大したものだ。町内の頭だッたのだ。木やりが上手だつたに違いない、それから段々研究にはいつたのだらう、前身仕事師の神主さんなんてものは、さうざらにあるもんぢやない。

 「都市」はうっかりと身の丈を超えちまう仕掛けがそこここに張り巡らされてゆく状態である、てなことをそう言えばもうずいぶん昔、ものを書き始めて間もない頃に生意気に口走ってたような気がする。確かに、ここにはそんな「都市」が、しかし身の丈超える仕掛けの中にそれでも〈いま・ここ〉にしかあり得ない個別具体の確かさで記述へと運ばれてきている。だが、「細部」だの「ディテール」だのといまどきの能書きでくくっちまう野暮はやめとくが吉。喰い物と顔見知りと路上の交わりと、それらを一緒くたに触媒にしながらサトハチの生身の裡から引き出されるさまざまな記憶や思い出の断片が、眼前の音や声、匂いや気配、ことばやもの言いなどをまつわらせながらひたすら紙の上に綾なし渦を巻き、安っぽくも絢爛豪華な千鳥足の道行きとして現前している次第。だから、こんな場面もしっかりと紙の間尺で切り取れる。

「木やりは誰が上手です」と聞いたら、「神田のサギ町のをぢさんでせう」といつた。サテ神田にサギ町なんてあつたかしらと考へたら「佐柄木町の小川光吉さんですよ」と重ねていつてくれた。佐柄木町がサギ町と、こつちへ聞きとれる。昔の口調が、まだ残つてゐるんだと思ふと、一寸うれしくなつた。

 「昔は重いものを動かすのに、木やりがなければ動きませんでしたからな。いまぢや機械を使ふんで、すたりましたよ、白酒柱だてなんてものは歌澤となつて残つてますよ」

 たとえば、あの今和次郎考現学、どこか大正的知性のかったるさを引きずる文章でなく、実はこちらが本領とばかりに欣喜雀躍、ひたすらはしゃぎまわった気配が漂うあんな図版こんな意匠のさまとその並びを脳裏に重ね合わせて映し出しながら、あるいは、かの柳田國男は『明治大正史・世相篇』の東洋文庫版旧字混じりの字ヅラを想起しながら、ひとつ声に出して読んでみようじゃないか。同時代の生身の生きて呼吸していた空気が雰囲気が、うっかりこの21世紀に身を置いちまってるこちとらの身の裡にもまっとうに感得されてくるようなものだからして。そんな意味での「歴史」「叙述」だったりするんだからして。

みなさんのうちで佃島へ行ったとがある人が何人あるでせう。川一つへだてきりなんだが、ここへくるとまるで違ふ。第一匂ひが違ふ。磯臭い匂ひがする。東京といふより近縣の漁師町の匂ひだ。いたづらに臭い匂ひぢやない。なつかしい匂ひだ。僕はアセチリンガスの匂ひを嗅ぐとおふくろを思ひ出すタチだが、この匂ひもをばさん位は思ひ出す匂ひだ。

 ほぼ煮崩れしちまってるいまどきの古書市場でもまずは4ケタ後半、美本ならどうやら5ケタ越えの値も未だについちまうらしいシロモノなのは、そういうことばの魅力、うたをはらんだ文体の射程を評価する視線が市場に少しでも残っている証しなんだと思いなして、そうか善哉善哉、ならばいざとなったらこのボロい一冊も叩き売りゃまた小遣いくらいにゃなるか、とまあ、そういう信頼もまた宿してくれるのが、これら古書雑書やくたいもない紙の書物の今なお健気で可愛いところなのであります。
 浅草その他、昭和初年のモダニズム、当時前景化していった大衆社会化とそれに伴う新中間層ベースな都市生活文化への興味関心が、改めて若い衆世代を中心に盛り上がってきているような日本語環境での人文系ガクモン沙汰の昨今、この一冊も主に浅草がらみで引き合いに出されることもあるけれども、いまどきのもの言いでの「サブカル」がらみの読み方味わい方だとどうしてもどこかひとつ薬味がきかぬ憾みもある。いや、それもまたひとつの「研究」視線、「業績」縛りないまどきの知性の習い性なのかも知れないけれども、そしてまた「細部」「ディテール」の類を称揚してみせる身振りそのものもそのような習い性と無関係のわけもないはずなのだけれども、長年のサトハチ贔屓、その「うた」と「はなし」をおのが身ひとつに抑えこんでゆくような生身のありよう、ことばの闊達に、不遜ながらも民俗学的知性の初志の気配を直観的に察知しちまってるこちとらなどからすれば、ああ、もったいねえなあ、とちょいとしかめっ面のひとつもしちまう時もあったりするのだ。


※ネット武蔵野版。

サトウハチロー―僕の東京地図

サトウハチロー―僕の東京地図

※もとはこんなの。

マチとイナカ、について

 ひとりで学ぶということ。書生ということ。明治20年代になって「書生」というのが風俗としても認識されてくること。

 全国から「学問」で立身を志した若者がマチに集まってきた。硬派/軟派のこと。彼らは単身者でありマチで立身出世していずれ「故郷に錦を飾る」ということをめざしていた。これは実際に故郷に戻る、戻って生活するという意味では必ずしもない。少なくとも想定はされていなかった、具体的にそこまで考えていなかったはずだ。だからこその象徴的な意味として「故郷」はあり、そこに「錦を飾る」というのは郷党の視線の前に仰ぎ見られる、ほめられる、評価されるものとしての自分の将来を想定していた、ということになる。飾ってその後どうなるのか、は具体的ではない。けれども、その程度に「故郷」というのはそこに生きる「郷党」の生身具体と共に、マチへ出てきた立身出世を志した単身者のココロを縛っていたらしい。

 具体的にはその「故郷」は決して好ましいものではなかったことは、近代文学が「家」に仮託しながらその呪縛桎梏を執拗に追い続けてきたことをあげるまでもない。けれども、ひとつ言えることは、そのように「郷党」からの視線を常に意識していた、せざるを得なかったからこそ、出郷者の単身者たちは「故郷」を客体化して「どうでもいい」位置にフラットに意味づけることができないまま、その後もずっと推移してきたということだ。それは少なくとも、1980年代いっぱい、「戦後」の終焉が実際に社会現象として現前化し始めるまでははっきりと意識されていたものだったし、そのような精神風景、ココロのありようを自明の前提として、あらゆる日本の大衆文化、常民的表現のジャンルは成り立っていたのだと言えるだろう。

マンガ「評論」「批評」の発生地点(2)・メモ

  • マンガが知的なことばにとらえられるようになり始めた頃=1960年代後半〜1970年代
  • その頃、マンガを「評論」「批評」の対象としてとらえるようになっていた側の世代差
  • マンガ体験における「世代差」を意識すること。
  • 団塊の世代=当時の「若者」=マンガを小さい頃から読んでいた世代=量的にも数が多かった=大学進学率が上昇して「学生」文化が表面化してきた世代。
  • それ以前の世代=当時のオトナ=しかも活字を読む知性がまだ少数派=マンガとの距離があらかじめ存在した世代=活字/文字の高みから、敢えて「通俗」で「大衆」な「マンガ」へ、という視線と態度。

●当時のオトナたち=30代以上、40代も含まれる
⇒ マンガを小さい頃から読んではいない。「よそごと」としてのマンガ
鶴見俊輔1922年生……戦前にアメリカ留学。戦時交換船で帰国。『思想の科学』の中心人物のひとり。
尾崎秀樹1928年生……尾崎秀美の異母弟。文芸評論家。戦後「大衆文学」に着目した先駆者のひとり。
石子順造1929年生……東大卒。美術評論家。「キッチュ」論から大衆文化に関心。マンガへも。
佐藤忠男1930年生……『思想の科学』から育った映画評論家。元は新潟の郵便局員
    
●当時の「若者」たち=20代そこそこから10代も  ⇒おおむね「団塊の世代」が中核
⇒ マンガを小さい頃から読んでいた。自己形成過程とマンガが密着。
真崎 守1941年生……「峠あかね」名義で「評論」も。『COM』「ぐら・こん」の世話人
梶井 純1941年生……『漫画主義』同人。石子順造と共に「評論」の先駆者のひとり。
夜久 弘1945年生……『COMICばく』編集長。
呉 智英1946年生……評論家。『現代マンガの全体像』など。現、マンガ学会会長。
橋本 治1948年生……作家。『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』以下、マンガ「評論」中興のひとり。
夏目房之介1950年生……マンガコラムニスト&評論家。
いしかわじゅん1951年生……マンガ家&マンガ評論家。80年代「ニューウェーヴ」のひとり。
村上知彦1951年生……マンガ評論家。『漫金超』同人。大阪を中心に「評論」シーンをまとめる。

▼ それまで「貸本劇画」で商売してきていた側のオトナたち
桜井昌一1933年生……東京サイドでの「貸本劇画」の出版に携わる。
長井勝一1921年生……『ガロ』編集長。伝説の「モーゼルの勝ちゃん」。白土三平つげ義春を見出す。


▼ 主なマンガ家、クリエイターたちの「世代」
やなせたかし1919年生 ………「アンパンマン
水木しげる1922年生 ……応召して戦地へ。傷痍軍人に。紙芝居から貸本劇画へ。
手塚治虫1928年生 ……大阪医専卒。『メトロポリス』『新宝島』で時代を席巻。
白土三平1932年生 ……貸本劇画などから『ガロ』へ。「カムイ伝」「忍者武芸帳
永島慎二1937年生 ……手塚直系のひとり。私小説的マンガの先駆者。「フーテン」
つげ義春1937年生 ……貸本劇画などから『ガロ』へ。「ねじ式」「紅い花」
松本零士1938年生 ……『漫画少年』投稿から少女マンガへ。「男おいどん

▼ 「トキワ荘」グループ
寺田ヒロオ1931年生
藤子不二雄1933年+1934年生 
赤塚不二夫1935年生
赤塚不二夫1935年生
石森章太郎1938年生
水野英子1939年生
赤塚不二夫1935年生

梶原一騎1936年生
さいとうたかを1936年生
ちばてつや1939年生
川崎のぼる1941年生

山上たつひこ1947年生
大友克洋1954年生
江口寿史1956年生
高橋留美子1957年生

▼ 「花の24年組」周辺
大島弓子1947年生
池田理代子1947年生
山岸涼子1947年生
樹村みのり1949年生
萩尾望都1949年生
竹宮恵子1950年生

▼ アニメ周辺
宮崎 駿1941年生
冨野由悠季1941年生
押井 守1951年生


「文学」についてそのような「評論」「批評」が一気に花開いた昭和20年代半ばから後半にかけて。
そこでも同じような「世代差」は顕在化していた。戦前派、戦中派、戦後派、という区分。「新しい世代」としての石原慎太郎など。

マンガ「評論」「批評」の発生地点(1)・メモ

  • 永島の〈リアル〉、と、つげの〈リアル〉の対比
  • あるいは、『COM』と『ガロ』の違い。それらの異なる〈リアル〉を規定していたもの
  • 永島=『COM』=「手塚学校の優等生」(桜井昌夫)=「青春」の通過点、的な評価に
  • つげ=『ガロ』=「評論」「批評」を引き出す原点に=その後も「名声」は生き続ける

もちろん、同じ読み手が異なる〈リアル〉に接してゆくことは、当時、平然とあり得るようになっていた。それは、『がきデカ』と萩尾望都を共に難なく消化できる胃袋を持った読者が登場していたこととも、同時代的にシンクロしている。
 永島は〈リアル〉じゃない、と断じた桜井の視点は、ある意味で正しい。きれいごと、といったもの言いに薄めていいのかどうかは個人的には留保するが、少なくともポストモダン期の中沢新一のような、あるいは当時猖獗をきわめた「難解」文体の衒学趣味のあれこれのような、自分の日々の生活実感からしてどうしても尻がむずがゆくなるような、騙されねえぞ、的な気分を抱えてしまうような主体 (『ガロ』に集っていた読み手の気分のある部分には、そんなところがあった。後の、80年代的価値相対主義に連なってゆく萌芽的な意識) にとっては、生理的に距離を置くようなもの、ではあったのだろう。それは、桜井の「手塚学校の優等生」といった仰角の視線の表現からも傍証的にうかがえる。うかがえて、そしてほんとうに共感せざるを得ないようなところがあることも共に。
 でも、「カッコいい」、はどうしようもない。どうしようもないから、ゆらぎようもないのだ、そういう意味で、永島慎二の作品は何度も繰り返し、読み直され、解釈をされ直してゆく。その桜井的な「きれいごと」と思ってしまうような自意識にとってさえも。認めて、でも違うんだよなあ、とぼそり、とつぶやく、つぶやきながら、しかしその次の瞬間には、もうおのれ自身にとっての〈リアル〉、自前の手ざわりに向かって歩き出すしかないようなものだ。
 その「違い」のかなりの部分を規定していたらしい「児童漫画」というフィルターの効果と実質とは、そのように難儀なものだったらしい。横山隆一をリスペクトしていた、と桜井の証言する永島。後に「民話」のようなマンガを、と言い始めることも含めて。現実と不器用に格闘しながら、そのものとしての表現に向かうのでなく、必ずその道行きの過程で一枚、アルチザンとして、職人として、何らかのひと仕掛けをやらかさざるを得ない性癖、いや、業かも知れないのだが、それがあるがゆえに彼の手がけた表現は、「スタイリッシュ」で「おしゃれ」なものになり、それらを介した現実はある種の意識にとっては正しく〈リアル〉なものとして立ち現れる。
 だが、永島と比べると、つげ義春、にはそのような「児童漫画」のフィルターは介在していない。不思議なほどに薄いのだ。子どものため、という縛りはなさそうだし、現実に彼がマンガを描く時に果たしてどのような読者を想定していたのかさえも、思えばあまり定かならぬところがある。強いて言えば自分のため、自己治癒のための営みだったのかも知れない。自分の抱えた現実を自分のできる手段で表現にして外化してゆく、それによって自分の現実を客体化して認識できるようにし、ひいてはハンドリング可能、再編集のできる条件を準備してゆく。それこそ、かつての「文学」における「私小説」がそんなもの、だったような意味で。
 マンガを読むのはひとり、である。言うまでもなく、読書とのアナロジーで語られるような行為である。ついでに言えば、音楽を聴くのも今やひとり、である。本を読むように、マンガを読むように、音楽を聴く、そしていまや「読む」ことも。
 日本の週刊誌メディアに代表される連載マンガ、というのは、作品のあり方として、それらの連載の場が成り立っているさまざまな情報環境――雑誌やその経済的基盤、流通のあり方の時代的制約も含めた総体、そして読者のあり方とそのリテラシーも考慮した「読み」の水準の確定……などなどにもできる限り目配りをしながら想定される前提としてのそれを、作品そのもの、狭い意味でのテキスト自体とある意味釣り合わせながら設定されているものである。ゆえに、作品論、作家論というのはそれ自体として独立して成り立つものではない。
 芸術表現としてのマンガの「質」の議論もまた、そのような作品のあり方を十全に見通す認識があって初めて、有効なものになってくる。
 マンガと「知性」の出会い、インテリ/知識人の側からマンガをとらえてゆく動きは、『ガロ』の周辺から始まった。白土三平つげ義春とその作品が、当時のインテリ/知識人の側からどのように語られ、「評価」され、価値が付与されていったのか、その過程も含めて、マンガ「批評」「評論」の「歴史」として考える視点が必要。
 真崎守(評論を書く時のペンネームは「峠あかね」)の「評論」「批評」の立ち位置。純粋に活字の側から、当時の「学問」や「批評」の水準からやってきただけでなく、虫プロの現場に携わり、初期のアニメの演出を手がけていた経験と、同時に『COM』の「ぐら・こん」(全国規模での読者投稿欄)の世話役としてのキャリア、そして何より少年誌・青年誌の一線級のマンガ作家の立場も含めて、マンガをそのようにことばにしてゆくこと、の最先端にいたひとり。
 改めて、60年代後半から70年代にかけての時期の、マンガも含めたそれら新しい「文化」――「アングラ」と呼ばれた、勃興してきたサブカルチュアたちが、当時の「若者」の日常にとってどのような意味を持っていたのか、について。それらの同時代の雰囲気の中に、当時のマンガもあり、かつ読まれていたこと。

永島慎二の〈リアル〉・メモ

  • 私小説」としてのマンガの読まれ方。どうしてそうなっていったのか?
  • 当時、新たに勃興していた青年層のマンガ読者たちが求めたもの。そこに現れた「内面性」とは?
  • 「マンガの太宰治」という評価の意味。その功罪、光と影の両面を考える。*1

 永島慎二のこと、山上たつひこのこと、これまで講義の流れの中で紹介した『マンガ夜話』の、積み残しの部分を一気に消化。
60年代後半から70年代半ばにかけての時期の、マンガをとりまく情報環境の変貌。雑誌の増加と、それに伴う読者層の拡大。量的にも、そして何よりも世代的、階層的にも。小さい頃からマンガを読んで育った世代がハイティーンから20代に達し始めて、中には大学生から社会人になってもマンガを読む者が一定量出現してくる。それに見合って、青年誌も創刊されてくる。(『ビッグコミック』など) 貸本から発した「劇画」のスタイルが、結果的にそれら新しい読者層の拡大に受け入れられ、表舞台の商業誌に進出して市民権を得始める。
 「おとなマンガ」と呼ばれる領域の誕生。それまでのマンガ=「こどもマンガ」であることが改めて意識されるようになる。「手塚的なるもの」の後退。マンガをめぐる環境の転回。
 「カッコよかった」永島の技法。「おしゃれ」で、「スタイリッシュ」、だったこと。
新宿の雑踏の表現、ジャズ喫茶の雰囲気……それは同時代のジャーナリスティックな記述であったし、読者にとっては〈いま・ここ〉を見事に現前化してくれるという意味での〈リアル〉な表現、だった。
 しかし一方で、それは桜井昌男のような視線からは、〈リアル〉が足りない、として見られもしていた。ならば、どちらの〈リアル〉が「正しい」のか?  だが、そのような問い方そのものが、おそらくは無効である。どちらも共に〈リアル〉なのだ、表現として、あるいは表象文化を論じる地平からは。
 劇画が当時、〈リアル〉をめざしていたのは間違いない。それは、「手塚的なるもの」で完結したかに見え始めていたマンガのあり方に、その外部からオルターナティヴな、もうひとつの選択肢としての〈リアル〉を持ち込んでくることになった。技法としての劇画が可能にした〈リアル〉。そして、それら劇画で育ったリテラシー(読み書き能力)を実装した世代が読者として隆起してくるにつれて、逆に表現の現場としてのマンガの水準に、それら新たな読者のリテラシーの方から新たな影響を与えてくるのが見えるようになる。永島的な〈リアル〉、とは、そのような読者のリテラシーが、当時のマンガというメディアの「場」を介して、ある表現を獲得したかたち、であるとも言える。
 一方で、それら永島的な〈リアル〉、とは、ある意味ではるか後の、80年代を規定した「ポストモダン」の気分のさきがけだったかも知れない。見慣れた風景を「おしゃれ」に、「スタイリッシュ」にコンバート(変換、転換)してくれる表現。ゆるやかな意味でのブンガクの機能をマンガが持つようになったことの意味のひとつは、きっとそんなものでもあった。「私小説」的なマンガ、という意味は、内面=心理=「自分」を吐露する手段としてのマンガ、といったところだけでもなく、そのように読み手の抱えた現実に対して新たな〈リアル〉を付与してくれる装置として、コンバーターとして機能するようになったマンガ表現、ということでもある。
〈リアル〉とは、仕掛けを介して立ち上がるものである。それ自体として存在するもの、ではない。「文化」を持ってしまった動物としてのニンゲン、にとっては。「意味」を介してしか現実を認識することのできない部分を持ってしまった生き物。にも関わらず、同時に生き物として当たり前に自然環境に、生態系に規定される生身を持ってしまってもいる、あらかじめ疎外された存在としてのニンゲン。
 たとえば、広告コピー、もまたポストモダン期においては、そのような〈リアル〉を立ち上げる媒体として読まれていた。そのような〈リアル〉をうっかりと読んでしまうような読者のリテラシーが、ものすごい幅を持って大衆化していった時代。同時代の孤独やさびしさ、というものは、それまでと違い、高度経済成長の「豊かさ」を下支えにした高度大衆消費社会の情報環境において、ケタはずれの規模と深度とでそれこそパンデミックのように感染していった。文学が「ブンガク」、になっていった過程というのも、そのような状況のある反映だった。
 大正期の詩のように、広告コピーも読まれていった、という、当時一部で語られていたようなことは、そう思えば、あながち陳腐で凡庸な語り方というだけでもなかったかも知れない。「詩」にあらかじめの価値を認めた態度をカッコにくくっておける限りにおいて。
 ことば、を必要としてきた近代。それに気づくこと。気づいて、その次に、ならば自分は、と問い返してゆくこと。文科系の「教養」というものの輪郭は、そのような気づき方をしてゆくところからしか、見えてこない。

*1:1年生には少しややこしい話題かも知れないけれども、マンガに限らず、文化として〈いま・ここ〉のコンテンツを考えてゆく上でかなり大切なところだと思うので敢えて